足利学校を訪問
令和元年元旦に念願の儒学書籍の殿堂・足利学校の見学に行ってまいりました。浅草駅から東武鉄道の特急両毛7号に乗車、足利市駅まで快適な1時間21分でした。渡良瀬川を渡り、15分で史跡足利学校に到着、驚いたのは周りを堀が取り囲んでおり、壮大な館といった雰囲気であったことです。写真は大成殿で奥に木造孔子坐像がかすかに見えると思います。説明書によれば16世紀ごろ当時の足利庄代官長尾憲長が奉納したとのことです。
帰りがけ、室町時代に学校を再興した関東管領・上杉憲実公碑の傍らに質素な衆寮を見つけました。衆寮とは学生が勉強したり、生活したところであります。江戸時代中頃、弘明寺村出身の儒学者根本武夷が、この部屋で2年間儒教古典の研究に没頭したと想像するだけで厳粛な気持ちにさせられました。
現在世界遺産を目指して足利市あげて運動しているようです。早く実現することを祈らずにいられません。
儒教と横浜のかかわり
1.林大学頭の所領は横浜にあった
今から約2500年前中国の孔子によって説かれた儒教は、約1700年前日本に伝えられた。その後彼の思想は、日本の政治、社会生活に大きな影響を及ぼし現在にいたっている。とくに鎌倉・室町時代に鎌倉五山の禅僧が中國から宋学を伝えたこと、江戸時代には幕府官学の朱子学を指導した林大学頭の所領が武蔵国久良岐郡にあったこともあり、この横浜の地は昔から儒学者が行き来していたと思われる。
徳川幕府は儒教思想を社会体制の中核に置いた。そしてその儒教をつかさどる大学頭に
は歴代の林家当主が任命された。林家には昌平黌の運営費として1000石の所領、しかも横浜市南区、港南区の下記所領が与えられた(井土ヶ谷村、久保村、最戸村、弘明寺村、中里村、引越村の6カ村)。
林家は旗本に対する儒教教育だけでなく、中国、オランダなどとの外交交渉役をつとめた。とくに幕末におけるペリーとの日米和親条約交渉では、林復斎(林述斎の子)が日本代表となった。またハリスとの日米修好通商条約交渉では、甥の岩瀬忠震が外国奉行として活躍した。この二人の努力により横浜村の開港が実現したといえよう。
2. 儒学者・根本武夷は弘明寺村出身
荻生徂徠の高弟根本武夷誕生の1699年弘明寺村の名主の家に生まれた。18歳にして江戸へ出て儒学の第一人者である荻生徂徠門下生となった。その後幾多の俊秀の中から選ばれ、儒教経典の所蔵日本一といわれる野州足利学校に派遣され訪書に携わった。26年間にわたる研鑽の結果、発刊した「論語集解義疏」(ろんごしっかいぎそ)は時の清国皇帝乾隆帝の注目するところとなり、国家的大事業である四庫全書に組み入れられた。現在も台北故宮博物館に保存されております。根本武夷の墓は当初弘明寺にありましたが、京浜急行の敷設により六ッ川定光寺に移されております。
根本武夷は江戸留学中、弘明寺観音を懐かしみ「題賢海師山居」と題する漢詩を残している。
結宇接飛閣 摩尼秋色開
窓前青靄起 戸外白雲来
花雨霑芳樹 梵音揺法臺
千峰對萬壑 糜鹿自徘徊
(書き下し文)
結宇は飛閣に接し 摩尼は秋色を開く
窓前に青靄起き 戸外白雲来たる
花雨芳樹を霑おし 梵音は法臺を揺るがす
千峰は萬壑に對し 糜鹿は自から徘徊す
結宇・・家を建てること 宇・・のき 飛閣・・高い建物
摩尼・・宝珠 秋色・・秋のけはい 青靄(せいあい)・・青味をおびたもや
梵音・・読経の声 法臺(ほうだい)・・寺の建物 壑(かく)・・・谷
糜(び)・・おおしか
天の思想
1.天の思想
李克強元国務院総理が退任にあたり、つぎのような挨拶をしたことが話題を呼んでいる。
【今日は太陽の光が降り注ぎ、春のように暖かい。人々はよく人がやっていることを「天」は見ているというが、確かに「天」には眼がついているようだ。「天」は国務院の同志たちが、何年も骨身を惜しまず貢献したことを見て、ご褒美を与えるべきだと思ったのであろう。】
中国人の世界観の根本となっているのは、3000年にわたる天の思想である。しかし天の崇拝は文化人類学的にみると農耕民からではなく、遊牧民から生まれたとする説が有力である。それは中国周辺の遊牧民のみならず、遠く中近東にわたるユーラシア大陸の砂漠や草原に住む遊牧民族の間にも、それが普遍的にみられることを根拠としている。
中国において歴史的に天への崇拝が確立したのは、紀元前11世紀ごろ殷を倒し成立した周王朝の時代である。司馬遷の『史記』によると殷を征服した周はもともと西北の戎狄(じゅうてき)の地に住んでいた遊牧民であった可能性が強い。その際遊牧民の信仰をそのまま中国に持ち込み、農耕生活が進むにつれ、次第に天も農業神としての性格を強めていったものと思われる。このようにして生まれた天の神は人格神であった。万物を生み、そしてこれを保護する神であった。民の平安を約束する君主を選んで、これを天子に任命する。もしこれを虐げる君主が現れたばあい、厳しい天罰を下すのである。周の時代は紀元前11世紀のころに始まり、紀元前3世紀の半ば秦によって滅ぼされるまで、9百年に近い寿命を保った。この秩序の安定により、天が人格神としての性格を失い、次第に非人格的な存在に化していったと思われる。
すなわち天は人間のように言葉で命令するものではなく、四季の循環や万物の生育のうちにこそ天はある。天は人格的な存在ではなく、道や理といったロゴス的存在となったのである。この汎神論の世界観では、神・人間・自然の三者連続し、天は人間を生み、人間の内に宿る。人間のうちに宿る天は人間の天性である。
しかしながら天は依然として超越的な側面も残しており、人間の外にある一面をのこしていた。それが、いわゆる天命である。天命の原義は、天の神の命令という意味である。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がある。人間にできることはその全力を発揮することだけであり、事の成否は尽力を越えた運命によって決定されることをいったものである。この天命の思想は、あらゆる中国の思想のうちに深く浸透している。知識階級に限らず、一般民衆の間にも広くみられる。民族の思想であるともいえる。李克強元副総理が最後の挨拶で「天」を引用したのも、これを念頭に置いたからであろう。私ども日本人としても、これらの思想を前提に中国人とお付き合いしていくことが必要と思われる。
2.日中間の意思疎通は『論語』から
2022年9月29日、日中国交正常化50周年の記念イベントにおける、前中国大使垂秀夫氏のスピーチは示唆に富むものでしたので、以下に要旨をまとめました。
古来、日本人は『論語』から、いろいろ学んできました。
『人、遠き慮りなければ、必ず近き憂いあり』
50年前反対の声が強い中で当時の日中両国は、『遠き慮る』戦略的思考と政治的勇気をもって日中関係の新たな歴史に踏み込んだのです。
『和を以て貴しとなす』 『和して同ぜず』
日中両国は、引っ越しのできない隣国であり、永遠の隣人です。様々な摩擦があるのは正常なことであり、主張すべきは主張しつつも、互いに尊重し合いながら、ともに発展していかねばなりません。
『己の欲せざる所は人に施すことなかれ』と『論語』は教えます。
50年前交渉が難航した時、周恩来総理は『原則は守らねばならぬが、相手の落としどころも考える必要がある』と述べられ、日中共同声明の署名にたどりつくことができました。
『五十にして天命を知る』と、孔子は言いました。
今や国交正常化50年が経ちましたが、日中関係はいまだ『天命』を知るに至っておりません。『天命』とは何か、それは『永遠の隣人』として両国国民の安寧と幸せを実現させることであり、地域、そして世界の平和と繁栄に寄与することであると考えております。本日の記念すべき日が、『建設的かつ安定的な日中関係』に向けて新たな一歩を踏み出す機会となることを祈念します。
「ブログ担当者の感想」
上記の通り垂秀夫氏のスピーチは中国文明の源泉の一つである『論語』から5つもの箴言を選び日中関係についてのべている。
歴史上日本は中国から教えてもらうことが多かった。中国も日本からいろいろ学んだ。
第二次世界大戦終結までは中国は儒教国家であり、日本もとくに江戸時代以降、儒教思想が人々の心に深く浸透していた。その後中国は共産党一党独裁国家となり、日本は平和憲法下で、儒教はほとんど忘れられてしまった。このような時ほどより一層の相互理解が必要である。
中国は国家安全の観点から言論は抑える、とくに共産党一党支配に抵触する「自由」は難しい。しかしながら中国の知識人の心にはいまだ儒教精神が深く根付いている。日本人もまた同様である。相互理解を深めるためにも儒教精神をもう一度見直していく必要があると思う。
また日中関係の在り方としては、日本側も人的往来をもっと密にすること。今年1年政治家の台湾訪問は100人を超えた。一方中国へは10人くらいだったという。もっと関係を深めるべきで、厳しい時ほど理解を深めるべきであろう。国内で中国はけしからんという人はいくらでもいる。しかし単なる好き嫌いでなく、意見が違えば違うほど意見交換した方が良い。そして是々非々で対応していく。確かに50年、100年たっても中国は永遠の隣人である。引っ越しすることはできない。
相互不信が強まる現在の日中関係において、両国国民は50年前のように戦略的思考と政治的勇気を持って、緊密な意思疎通を行うことが求められているのではないでしょうか。
中国古代の思想家「墨子」の教え
先般ある本を読んだ。題名は『墨子よみがえるー非戦への奮闘努力のために』(平凡社ライブラリー)で著者は小生の尊敬する歴史家のひとり半藤一利氏(2021年1月没)であった。半藤先生の最後の言葉が「墨子を読みなさい」であったという。その中にいろいろ示唆に富む考え方が示されていた。あとがきを読んで再度驚いた。この内容は浜銀総合研究所発行の「ベストパートナー」に2010年1月号から6月号まで連載されたものであったという。当時の編集スタッフの慧眼に敬意を表する次第である。上の写真は銀座の個展会場でのもの、先生はその後1年有余で亡くなられた。
骨子は次の通りである。中国の戦国時代、今から2千数百年前七つの列強が覇権を求めて争っていた。なんとか戦いを回避しようと考えた思想家も数多く現れた。その中でも特色ある思想家、それが「墨子」であった。当時、孔子は儒教で「仁」を唱え、その中核は家族愛であった。これに対し墨子は「兼愛」を唱えた。兼とは「かねる」「あまねし」の意で、兼愛とは一切の人間を無差別に愛することである。
墨子によれば、孔子の仁は「別愛」であり、差別愛であって、この別愛からは平和どころかかえって争いが生まれるとする。 墨子の兼愛説から生まれた最も特色あるのは、その非戦論、とくに侵略戦争の否定論である。もっとも戦争を否定する傾向は、多少の程度の差はあっても諸子百家に共通して見られる傾向であるが、墨子ほど徹底したものは他に例を見ない。墨子は次のように言っている。もし世間で一人の人間を殺す者があれば、これを犯罪者として死刑にする。ところが一国の人々を攻めて皆殺しにすると、これは正義の行為として賞賛する。なんと不条理なことか。 およそ今の世の君主は、現有する領土に満足せず、これを拡張するために侵略の戦争をおこすものが多い。その犠牲となるのは罪なき民であり、その財産や生命を失うものは無数にのぼる。これは兼愛を欲する天の意志に反する、重大な罪悪であり、断じて許されることではない。このような見地から、墨子は戦争のもたらす惨禍と害毒を力説してやまない。
ただし墨子が否定するのは攻戦、すなわち侵略のための戦争に限る。また大国からの侵略を受けたときの防御の戦いは、むろん正当防衛であるから当然のこととする。それどころか、弱小国が強国の侵略を受けた場合には、その依頼を受けて防衛線に参加することさえ珍しくなかった。墨子は防衛戦の名人であったと言われ、墨子の集団が防衛にあたると、その防衛はすこぶる堅かったので、一般に堅く守ることを「墨守」と呼ぶようになったといわれる。
横浜文化を大切にする心
横浜文化を大切にする心
かつて横浜高等工業学校初代校長の鈴木達治先生は次のようにいわれた。「横浜にはまだ文化がない。これから皆さんが力をあわせ創っていかなければならない」。鈴木先生は1921年創立された横浜高等工業学校の初代校長をつとめられた。先生の心はその後の教授の選任にあたっても、強く発揮された。1924年建築学科設置にあたり主任教授にフランス帰りの芸術家中村順平氏を指名したことである。中村氏は再三固辞したものの、鈴木先生の熱意にほだされ就任、長きにわたり教鞭をとるとともに芸術的評価の高い作品を残した。この中に鈴木先生が「横浜に文化を大切にする心」を育てようとした意図を感ぜざるを得ない。
また1993年横浜銀行の新本店が完成した翌年、新装なったビアマーレ会場において行員、OB有志による「ハレルヤコーラス」の合唱演奏会が開催された。指揮は大友直人氏、神奈フィルの演奏であった。大盛況のうちに終了したが、来賓の当時の日銀支店長がいみじくも次の言葉を残された。「横浜銀行がこれほど文化度が高いとは思わなかった」と。
一般に横浜といえば「文化都市」というイメージが強い。横浜人自身も文化人と自認しているようだ。開港と同時に海外の文化は一気に流入しその窓口にはなった。しかし、それは外国の文化であり、横浜で育ったものではない。鈴木校長はそのことを鋭く見抜き、横浜の人々に自ら培った文化を大切にする心を教えたかったのであろう。
私はこの50年間、横浜市南区に居住している。七つの丘に囲まれ、その中を大岡川が港にむかって流れる、温暖で風光明媚な自然環境に恵まれている。この南区の大地は関東ローム層で覆われている。数十万年にわたる箱根火山、富士火山の噴火によって出来た台地に降り注ぐ雨水がいくつもの川となり、平坦な台地は丘が重なり合い、大岡川や帷子川が港へ流れ込む「横浜の地」となった。したがって江戸時代にはじまる吉田新田の埋め立て工事以前は、蒔田村、大岡村が大岡川河口であり、港の機能を果たしていた。したがって開港後は南区は港のバックヤード的機能をはたすこととなる。1822年横浜市立大岡小学校、1882年横浜商業高校が南太田、1916年に蒔田に横浜英和学院、1919年に三春台に関東学院、1920年に弘明寺に国立の横浜高等工業学校と,1923年に清水ヶ丘に横浜高等商業学校と矢継ぎ早に教育機関が整備された。当然のことながら文化、芸術面の才能ある人材が集積し、後に日本を代表する文豪や画家が輩出する。私ども南区民はこれら文化人の功績を称えるとともに後世に語り伝えていかねばならない。ここでは四名を紹介するが、それぞれの方々の業績を称える碑ひとつ見当たらないのは何としても残念である。
・文豪吉川英治 1948年文化勲章受章
吉川 英治(1892年〈明治25年〉8月11日 - 1962年〈昭和37年〉9月7日)は、日本の小説家。現在の神奈川県横浜市中区出身。位階は従三位。
様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は多くの読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層に親しまれ「国民文学作家」と呼ばれた。宝塚市千種の地名の名付け親。
現在の南区平楽で生まれ育ったとのことです。
・建築家・横浜国立大学名誉教授 中村順平
中村 順平(なかむら じゅんぺい、1887年8月29日 - 1977年5月24日)は日本の建築家。建築教育者。
大阪府大阪市生まれ。三男二女の末子。[1]旧制天王寺中学(現・大阪府立天王寺高等学校)に進学。同校を経て、1910年に名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)を卒業。曾禰達蔵・中條精一郎の曾禰中條建築事務所に入所する。1910年12月から大阪高槻工兵第四大隊第一中隊入営。[2]大正三年には(中村二十七)東京大正博覧会第一会場の設計を委ねられ、又大正八年には一ツ橋如水会館の設計を担当。[3]1920年に、岩崎財団の助成をうけ、フランスに渡る。1921年、エコール・デ・ボザールに、33歳にして留学。クロモール&エクスペールのアトリエに所属。ボザールでは、第一次世界大戦直後に学生の年齢上限を35歳まで引き上げたため、受験可能となっている。下級課程を1年で修了、翌年上級課程に進級する一方、イタリアにも足を運ぶ。
1924年に、鈴木煙州校長率いる横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)に開設設置された建築学科の主任教授として、教育に専念する。中村はここで、日本初のそして唯一のボザール流の建築教育を実践、緻密ドローイングに12時間エスキースなどの課題を課し、また妥協しない指導を展開した。このとき中村は、デザイン教育に関しては学年制を排除した。戦後横浜国立大学移行後も、1950年まで非常勤として教壇に立ち続けた。[6]また中村が担当したという、当時の建築学会から全国の(旧制)中学校へ配布した「建築学科(本科)に入学を志望する青年諸君への注意」の序文はつとに有名。横浜銀行旧本店壁画は神奈川、横浜の産業、文化を描いている。約50メートルの大作。現在はその一部が馬車道駅構内に設置されている。
・日本画片岡球子 1989年文化勲章受章
片岡 球子(かたおか たまこ、1905年〈明治38年〉1月5日 - 2008年〈平成20年〉1月16日)は、昭和から平成時代にかけて活躍した日本画家。日本芸術院会員・文化功労者・文化勲章受章者。位階は従三位。現在の北海道札幌市東区出身。
1926年(大正15年)、女子美術専門学校(現・女子美術大学)日本画科高等科卒業。
卒業後は神奈川県の横浜市大岡尋常高等小学校(現横浜市立大岡小学校)に勤めながら創作を続ける。画家志望に反対する両親から勘当されながら画業を進めるが帝展(現日展)には3度落選。しかし1930年(昭和5年)、第17回院展に「枇杷」で初入選。さらに1933年(昭和8年)の院展にも入選する。
しかしその後は1939年(昭和14年)の第26回院展に「緑陰」が入選し院友に推挙されて以後は毎回入選するようになる。1955年(昭和30年)に横浜市立大岡小学校を依願退職し、女子美術大学日本画科専任講師となる。1960年(昭和35年)に助教授、1965年(昭和40年)には教授となる。1966年(昭和41年)に愛知県立芸術大学が開校、日本画科主任教授、1973年(昭和48年)より客員教授。