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天の思想

天の思想

 

李克強元国務院総理が退任にあたり、つぎのような挨拶をしたことが話題を呼んでいる。

 

【今日は太陽の光が降り注ぎ、春のように暖かい。人々はよく人がやっていることを「天」は見ているというが、確かに「天」には眼がついているようだ。「天」は国務院の同志たちが、何年も骨身を惜しまず貢献したことを見て、ご褒美を与えるべきだと思ったのであろう。】

 

中国人の世界観の根本となっているのは、3000年にわたる天の思想である。しかし天の崇拝は文化人類学的にみると農耕民からではなく、遊牧民から生まれたとする説が有力である。それは中国周辺の遊牧民のみならず、遠く中近東にわたるユーラシア大陸の砂漠や草原に住む遊牧民族の間にも、それが普遍的にみられることを根拠としている。

 

中国において歴史的に天への崇拝が確立したのは、紀元前11世紀ごろ殷を倒し成立した周王朝の時代である。司馬遷の『史記』によると殷を征服した周はもともと西北の戎狄(じゅうてき)の地に住んでいた遊牧民であった可能性が強い。その際遊牧民の信仰をそのまま中国に持ち込み、農耕生活が進むにつれ、次第に天も農業神としての性格を強めていったものと思われる。このようにして生まれた天の神は人格神であった。万物を生み、そしてこれを保護する神であった。民の平安を約束する君主を選んで、これを天子に任命する。もしこれを虐げる君主が現れたばあい、厳しい天罰を下すのである。周の時代は紀元前11世紀のころに始まり、紀元前3世紀の半ば秦によって滅ぼされるまで、9百年に近い寿命を保った。この秩序の安定により、天が人格神としての性格を失い、次第に非人格的な存在に化していったと思われる。

すなわち天は人間のように言葉で命令するものではなく、四季の循環や万物の生育のうちにこそ天はある。天は人格的な存在ではなく、道や理といったロゴス的存在となったのである。この汎神論の世界観では、神・人間・自然の三者連続し、天は人間を生み、人間の内に宿る。人間のうちに宿る天は人間の天性である。

しかしながら天は依然として超越的な側面も残しており、人間の外にある一面をのこしていた。それが、いわゆる天命である。天命の原義は、天の神の命令という意味である。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がある。人間にできることはその全力を発揮することだけであり、事の成否は尽力を越えた運命によって決定されることをいったものである。この天命の思想は、あらゆる中国の思想のうちに深く浸透している。知識階級に限らず、一般民衆の間にも広くみられる。民族の思想であるともいえる。李克強元副総理が最後の挨拶で「天」を引用したのも、これを念頭に置いたからであろう。私ども日本人としても、これらの思想を前提に中国人とお付き合いしていくことが必要と思われる。


2023/03/15 17:58 | 固定リンク | 未分類 | コメント (0)
中国古代の思想家「墨子」の教え
中国古代の思想家「墨子」の教え

先般ある本を読んだ。題名は『墨子よみがえるー非戦への奮闘努力のために』(平凡社ライブラリー)で著者は小生の尊敬する歴史家のひとり半藤一利氏(20211月没)であった。半藤先生の最後の言葉が「墨子を読みなさい」であったという。その中にいろいろ示唆に富む考え方が示されていた。あとがきを読んで再度驚いた。この内容は浜銀総合研究所発行の「ベストパートナー」に20101月号から6月号まで連載されたものであったという。当時の編集スタッフの慧眼に敬意を表する次第である。上の写真は銀座の個展会場でのもの、先生はその後1年有余で亡くなられた。

 骨子は次の通りである。中国の戦国時代、今から2千数百年前七つの列強が覇権を求めて争っていた。なんとか戦いを回避しようと考えた思想家も数多く現れた。その中でも特色ある思想家、それが「墨子」であった。当時、孔子は儒教で「仁」を唱え、その中核は家族愛であった。これに対し墨子は「兼愛」を唱えた。兼とは「かねる」「あまねし」の意で、兼愛とは一切の人間を無差別に愛することである。

墨子によれば、孔子の仁は「別愛」であり、差別愛であって、この別愛からは平和どころかかえって争いが生まれるとする。 墨子の兼愛説から生まれた最も特色あるのは、その非戦論、とくに侵略戦争の否定論である。もっとも戦争を否定する傾向は、多少の程度の差はあっても諸子百家に共通して見られる傾向であるが、墨子ほど徹底したものは他に例を見ない。墨子は次のように言っている。もし世間で一人の人間を殺す者があれば、これを犯罪者として死刑にする。ところが一国の人々を攻めて皆殺しにすると、これは正義の行為として賞賛する。なんと不条理なことか。 およそ今の世の君主は、現有する領土に満足せず、これを拡張するために侵略の戦争をおこすものが多い。その犠牲となるのは罪なき民であり、その財産や生命を失うものは無数にのぼる。これは兼愛を欲する天の意志に反する、重大な罪悪であり、断じて許されることではない。このような見地から、墨子は戦争のもたらす惨禍と害毒を力説してやまない。

 ただし墨子が否定するのは攻戦、すなわち侵略のための戦争に限る。また大国からの侵略を受けたときの防御の戦いは、むろん正当防衛であるから当然のこととする。それどころか、弱小国が強国の侵略を受けた場合には、その依頼を受けて防衛線に参加することさえ珍しくなかった。墨子は防衛戦の名人であったと言われ、墨子の集団が防衛にあたると、その防衛はすこぶる堅かったので、一般に堅く守ることを「墨守」と呼ぶようになったといわれる。