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横浜文化を大切にする心
横浜文化を大切にする心
横浜文化を大切にする心
 かつて横浜高等工業学校初代校長の鈴木達治先生は次のようにいわれた。「横浜にはまだ文化がない。これから皆さんが力をあわせ創っていかなければならない」。鈴木先生は1921年創立された横浜高等工業学校の初代校長をつとめられた。先生の心はその後の教授の選任にあたっても、強く発揮された。1924年建築学科設置にあたり主任教授にフランス帰りの芸術家中村順平氏を指名したことである。中村氏は再三固辞したものの、鈴木先生の熱意にほだされ就任、長きにわたり教鞭をとるとともに芸術的評価の高い作品を残した。この中に鈴木先生が「横浜に文化を大切にする心」を育てようとした意図を感ぜざるを得ない。

 また1993年横浜銀行の新本店が完成した翌年、新装なったビアマーレ会場において行員、OB有志による「ハレルヤコーラス」の合唱演奏会が開催された。指揮は大友直人氏、神奈フィルの演奏であった。大盛況のうちに終了したが、来賓の当時の日銀支店長がいみじくも次の言葉を残された。「横浜銀行がこれほど文化度が高いとは思わなかった」と。

 一般に横浜といえば「文化都市」というイメージが強い。横浜人自身も文化人と自認しているようだ。開港と同時に海外の文化は一気に流入しその窓口にはなった。しかし、それは外国の文化であり、横浜で育ったものではない。鈴木校長はそのことを鋭く見抜き、横浜の人々に自ら培った文化を大切にする心を教えたかったのであろう。

 私はこの50年間、横浜市南区に居住している。七つの丘に囲まれ、その中を大岡川が港にむかって流れる、温暖で風光明媚な自然環境に恵まれている。この南区の大地は関東ローム層で覆われている。数十万年にわたる箱根火山、富士火山の噴火によって出来た台地に降り注ぐ雨水がいくつもの川となり、平坦な台地は丘が重なり合い、大岡川や帷子川が港へ流れ込む「横浜の地」となった。したがって江戸時代にはじまる吉田新田の埋め立て工事以前は、蒔田村、大岡村が大岡川河口であり、港の機能を果たしていた。したがって開港後は南区は港のバックヤード的機能をはたすこととなる。1822年横浜市立大岡小学校、1882年横浜商業高校が南太田、1916年に蒔田に横浜英和学院、1919年に三春台に関東学院、1920年に弘明寺に国立の横浜高等工業学校と,1923年に清水ヶ丘に横浜高等商業学校と矢継ぎ早に教育機関が整備された。当然のことながら文化、芸術面の才能ある人材が集積し、後に日本を代表する文豪や画家が輩出する。私ども南区民はこれら文化人の功績を称えるとともに後世に語り伝えていかねばならない。ここでは四名を紹介するが、それぞれの方々の業績を称える碑ひとつ見当たらないのは何としても残念である。

・文豪吉川英治 1948年文化勲章受章
吉川 英治(1892年〈明治25年〉8月11日 - 1962年〈昭和37年〉9月7日)は、日本の小説家。現在の神奈川県横浜市中区出身。位階は従三位。
様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は多くの読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層に親しまれ「国民文学作家」と呼ばれた。宝塚市千種の地名の名付け親。
現在の南区平楽で生まれ育ったとのことです。

・建築家・横浜国立大学名誉教授 中村順平
中村 順平(なかむら じゅんぺい、1887年8月29日 - 1977年5月24日)は日本の建築家。建築教育者。
大阪府大阪市生まれ。三男二女の末子。[1]旧制天王寺中学(現・大阪府立天王寺高等学校)に進学。同校を経て、1910年に名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)を卒業。曾禰達蔵・中條精一郎の曾禰中條建築事務所に入所する。1910年12月から大阪高槻工兵第四大隊第一中隊入営。[2]大正三年には(中村二十七)東京大正博覧会第一会場の設計を委ねられ、又大正八年には一ツ橋如水会館の設計を担当。[3]1920年に、岩崎財団の助成をうけ、フランスに渡る。1921年、エコール・デ・ボザールに、33歳にして留学。クロモール&エクスペールのアトリエに所属。ボザールでは、第一次世界大戦直後に学生の年齢上限を35歳まで引き上げたため、受験可能となっている。下級課程を1年で修了、翌年上級課程に進級する一方、イタリアにも足を運ぶ。
1924年に、鈴木煙州校長率いる横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)に開設設置された建築学科の主任教授として、教育に専念する。中村はここで、日本初のそして唯一のボザール流の建築教育を実践、緻密ドローイングに12時間エスキースなどの課題を課し、また妥協しない指導を展開した。このとき中村は、デザイン教育に関しては学年制を排除した。戦後横浜国立大学移行後も、1950年まで非常勤として教壇に立ち続けた。[6]また中村が担当したという、当時の建築学会から全国の(旧制)中学校へ配布した「建築学科(本科)に入学を志望する青年諸君への注意」の序文はつとに有名。横浜銀行旧本店壁画は神奈川、横浜の産業、文化を描いている。約50メートルの大作。現在はその一部が馬車道駅構内に設置されている。

・日本画片岡球子 1989年文化勲章受章
片岡 球子(かたおか たまこ、1905年〈明治38年〉1月5日 - 2008年〈平成20年〉1月16日)は、昭和から平成時代にかけて活躍した日本画家。日本芸術院会員・文化功労者・文化勲章受章者。位階は従三位。現在の北海道札幌市東区出身。
1926年(大正15年)、女子美術専門学校(現・女子美術大学)日本画科高等科卒業。
卒業後は神奈川県の横浜市大岡尋常高等小学校(現横浜市立大岡小学校)に勤めながら創作を続ける。画家志望に反対する両親から勘当されながら画業を進めるが帝展(現日展)には3度落選。しかし1930年(昭和5年)、第17回院展に「枇杷」で初入選。さらに1933年(昭和8年)の院展にも入選する。
しかしその後は1939年(昭和14年)の第26回院展に「緑陰」が入選し院友に推挙されて以後は毎回入選するようになる。1955年(昭和30年)に横浜市立大岡小学校を依願退職し、女子美術大学日本画科専任講師となる。1960年(昭和35年)に助教授、1965年(昭和40年)には教授となる。1966年(昭和41年)に愛知県立芸術大学が開校、日本画科主任教授、1973年(昭和48年)より客員教授。