≪ホーム≫へ戻る
儒教と横浜のかかわり
儒教と横浜のかかわり

 1.林大学頭の所領は横浜にあった

 今から約2500年前中国の孔子によって説かれた儒教は、約1700年前日本に伝えられた。その後彼の思想は、日本の政治、社会生活に大きな影響を及ぼし現在にいたっている。とくに鎌倉・室町時代に鎌倉五山の禅僧が中國から宋学を伝えたこと、江戸時代には幕府官学の朱子学を指導した林大学頭の所領が武蔵国久良岐郡にあったこともあり、この横浜の地は昔から儒学者が行き来していたと思われる。

徳川幕府は儒教思想を社会体制の中核に置いた。そしてその儒教をつかさどる大学頭に

は歴代の林家当主が任命された。林家には昌平黌の運営費として1000石の所領、しかも横浜市南区、港南区の下記所領が与えられた(井土ヶ谷村、久保村、最戸村、弘明寺村、中里村、引越村の6カ村)。

林家は旗本に対する儒教教育だけでなく、中国、オランダなどとの外交交渉役をつとめた。とくに幕末におけるペリーとの日米和親条約交渉では、林復斎(林述斎の子)が日本代表となった。またハリスとの日米修好通商条約交渉では、甥の岩瀬忠震が外国奉行として活躍した。この二人の努力により横浜村の開港が実現したといえよう。

2. 儒学者・根本武夷は弘明寺村出身

荻生徂徠の高弟根本武夷誕生の1699年弘明寺村の名主の家に生まれた。18歳にして江戸へ出て儒学の第一人者である荻生徂徠門下生となった。その後幾多の俊秀の中から選ばれ、儒教経典の所蔵日本一といわれる野州足利学校に派遣され訪書に携わった。26年間にわたる研鑽の結果、発刊した「論語集解義疏」(ろんごしっかいぎそ)は時の清国皇帝乾隆帝の注目するところとなり、国家的大事業である四庫全書に組み入れられた。現在も台北故宮博物館に保存されております。根本武夷の墓は当初弘明寺にありましたが、京浜急行の敷設により六ッ川定光寺に移されております。

根本武夷は江戸留学中、弘明寺観音を懐かしみ「題賢海師山居」と題する漢詩を残している。

     結宇接飛閣  摩尼秋色開

     窓前青靄起  戸外白雲来

     花雨霑芳樹  梵音揺法臺

     千峰對萬壑    糜鹿自徘徊

(書き下し文)

結宇は飛閣に接し  摩尼は秋色を開く

窓前に青靄起き  戸外白雲来たる

花雨芳樹を霑おし  梵音は法臺を揺るがす

千峰は萬壑に對し    糜鹿は自から徘徊す     

結宇・・家を建てること   宇・・のき   飛閣・・高い建物

摩尼・・宝珠   秋色・・秋のけはい   青靄(せいあい)・・青味をおびたもや  

梵音・・読経の声   法臺(ほうだい)・・寺の建物   壑(かく)・・・谷

糜(び)・・おおしか



 


2023/04/21 22:12 | 固定リンク | 未分類 | コメント (0)
この記事にコメントする(ただし20件を超えると受理できません)

お名前

コメント